羽生結弦が平昌で伝説をつくった。強い心の物語である。
4カ月ぶりの実戦が、フィギュアスケート男子66年ぶりの連覇をかけた五輪。
痛めていた右足首も癒えてはいない。そんな計り知れない重圧と不安に立ち向かい、打ち勝ったのだ。
右手の指で「1」をつくって天に突き上げた最後のポーズが、誇らしかった。
SP首位で迎えたフリー。その右足で8つのジャンプをすべて着氷させた。
後半の4回転はぐらついたが、最後まで耐えてみせた。両手を広げて「勝った」と叫んだ。
「頑張ってくれた右足に感謝したい。やり切れたと思うくらいの演技ができた」。
表情もコメントも達成感に満ちていた。
前回のソチ五輪、19歳で悲願の金メダリストになった。
しかし、満足はできなかった。完璧なSPから一転、フリーではジャンプで2度転倒した。
その悔しさを、この4年間の成長の糧にした。
さらなる高みを自らに課した。ジャンプの種類を増やし、
精度を上げ、スケーティングを磨き抜いた。
4年前、あのあどけなさの残る若い王者は、強み、すごみを増して五輪に帰ってきたのだ。
「いろんなものを犠牲にして頑張ったご褒美」。2つ目の金メダルを羽生はそう表現した。
平昌でのフリー演技は、30年に及ぶ4回転時代の完成形でもあった。
静かで優雅な「SEIMEI」の曲に乗って、よどみなく、高くて美しい4回転ジャンプを次々と決めた。
顔にも体にも力みがなく、スケーティングとジャンプ、音楽が見事に調和した演技は、
まるで芸術作品のようで、見ている者に、この競技が過酷なスポーツであることを忘れさせた。
88年にブラウニング(カナダ)が史上初めて4回転を成功させて以降、
フィギュアスケート界は「ジャンプか芸術か」の議論が途切れることはなかった。
10年バンクーバー五輪では4回転を跳ばずに優勝したライサチェク(米国)に、
銀メダルのプルシェンコ(ロシア)が「アイスダンスに名前を変えなければならない」とかみついた。
そんな論争が過去のものと思えるほど、羽生はジャンプと芸術を完璧に一体化させたのである。
きっと、あの84年ロサンゼルス五輪のカール・ルイスのように、平昌は『羽生の五輪』として長く人々の記憶に刻まれることだろう。
ソチから平昌の4年間ほど、短期間にジャンプが進化した例はない。
種類が一気に増え、今大会のSPではソチ五輪では1人しかいなかった2種類の4回転を跳ぶ選手が9人に激増。
フリーではネーサン・チェン(米国)が実に5種類の4回転を決めた。
4年後の北京五輪は、4回転半、5回転の時代を迎えているに違いない。
そして、23歳になった王者が口にした「将来的にはアクセル(4回転半)も跳びたい」という言葉を聞いて
、新たなジャンプの時代を切り開くのもまた、羽生結弦なのだと思った。
もしかすると強い心の物語は、まだ本当のクライマックスを迎えていないのかもしれない。